✪鐘楼とは✪

寺院の鐘楼に吊るされ、撞木で打ち鳴らされる仏具。 時の知らせや儀式の合図に、また衆生の愚かしい考えや愚行を引きとどめることを目的として打ち鳴らされる。 さらにその音色を聴くことによって、地獄の苦しみから逃れ、極楽に往生できるとされている。
起源は仏教の興ったインドではなく、中国の古代の青銅器が起源であると言われている。 梵鐘を形式上から分類すると、日本で造られた純日本式の「和鐘」、韓国で鋳造された「朝鮮鐘(韓国鐘)」、 中国製の「中国鐘」に大別できる。また、和鐘と朝鮮鐘、または中国鐘との混合様式になるものや、 朝鮮鐘、中国鐘を日本で模索した鐘も見られる。日本に現存する鐘は、ほとんどが和鐘とされている。

✪鐘楼の名称✪

和鐘の場合、鐘身は上帯・中帯・下帯 と称される3本の横帯で水平方向に 区切られるとともに、垂直方向にも縦帯 と称される帯で区切られる。 縦帯は通常4本で、鐘身を縦に4分割する。 (近世の鐘には5本の縦帯をもつものもある) 上帯と中帯の間の空間は、上部を「乳の間」 、下部を「池の間」という。 「乳の間」には「乳」と称する突起物の 装飾を並べる。「池の間」は無文の 場合もあるが、ここに銘文を鋳出したり、 天人像、仏像など具体的な図柄を表す 場合もある。中帯と下帯との間のスペースは 「草の間」と呼ばれる。鐘身の撞木が当たる 位置には通常2箇所の撞座(つきざ)が 対照的に設けられる。(まれに4箇所の 場合もある)

鐘楼の名称

✪鐘楼の銘文✪

梵鐘にはその鋳造の由来と功徳を述べた銘文が表現されるのが普通である。 しかし、奈良時代から平安時代前期の鐘では在銘のものが少なく、その70%までが無銘である。 梵鐘が銘文を持つことを通則とするようになるのは鎌倉時代以降のことで、この時代の鐘では無銘のものは 12%にとどまる。以後、無銘のものはだいたい例外的存在となって、ほとんどの鐘がなんらかの銘辞をもつことになる。
銘文は主として池の間に表現される。そのことが確立したのは平安時代前期以降であり、鎌倉時代以降になると 銘文は池の間以外の場所にあることはきわめて少ない。逆に、奈良時代の鐘は一口を除いて ほとんどが池の間以外に表現されている。 銘文の形式は、大別して3種類になる。その第一種はもっとも完備した形式のもので「序」と「銘」の2部分からなる。 「序」・・鋳鐘発願の趣旨・寺院の来歴・鋳造時期/願主・檀那・鋳工の名(所要材料、序、銘の撰者、筆者などの名) 「銘」・・仏法の功徳・鋳鐘・撞鐘の利益を賛嘆するもの

✪鐘楼の用途✪

日本では昔、朝夕の二回、鐘を鳴らしていた。 朝の鐘は眠気を覚ます起床の合図、夕方の鐘は煩悩に曇らされた目を覚ますために鳴らされたと言われる。 現在では鐘を突くと言えば除夜の鐘が一般的だが人の心の108の煩悩を戒める為に108回鳴らされる。 中国では昔、同じ理由で朝夕に108回鐘を鳴らしていた様だ。
また、ヨーロッパでは紀元前4世紀頃、キリスト教の宗教的な行事と連動して人々を集める為の合図(シグナル)として 理想的な物と見なされるようになっていき広く広まった。 「都市」が誕生・発達することにより、鐘の需要は飛躍的に高まりそれまでの宗教的な機能に加えて、 人々が自らの市民生活の一部として鐘を取り込み鐘は中世の市民たちの 生活にリズムを与える重要なコミュニケーション・ツールとして用いられるようになった様だ。

✪戦争と鐘楼✪

鎌倉時代から戦争の合図に鐘をうちならしたのであるが、寺々の鐘を鐘楼で撞くのはまだいいほうで、 多くの場合には鐘を鐘楼から外して、戦場に担ぎ出した様だ。いざ戦争ともなれば寺社の鐘は みな徴発の憂きにあい、こうして戦場へ運ばれた梵鐘は元の神社に戻ることはなく、敵陣に奪い取られ、 あるいは戦場に遺棄され、または敗軍の兵によって土中に埋没され、あるいは池や井戸に投げ込まれてしまったと言れる。 そんなこともあり、梵鐘が地下から掘り起こされる事は少なくはなく、このように梵鐘が転々としてその所在を変え、 現存する古鐘の大半がもと奉献された社寺になく他の社寺のものとなっている原因の主位を占めるのは戦争であると言える。 他にも売買、盗難、質入れ等もその原因に数えられる。
日本では第二次世界大戦時に出された金属類回収令により、文化財に指定されているものなど一部の例外を除き、 数多くの梵鐘が供出され、鋳潰された。これにより、近代や近世以前に鋳造された鐘の多くが溶解され、 日本の鐘の9割以上が第二次世界大戦時に失われたという。