2023.07.31

【第9話】ゴム草履

~ セイノーロジックス前社長、渡辺景吾が執筆したエッセイ「ゐねむりゑびす」から ~


静岡県にあるK学園は、様々な理由で両親と暮らせない子供たちの施設だ。ここの学園長はボクの父の親友だったので、少年時代のほぼ毎年の夏、ボクは父に連れられてK学園に行き、何十人もの子供たちと遊んでいた。西伊豆の土肥や戸田の小学校を借りて合宿し、遠泳をしたり、町の掃除をしたり、夕食のために魚や貝を採ったり。ボクたちはいつも海水パンツにランニングシャツ、それにゴム草履という格好だった。

ある日の夕暮れ、四、五人で、満潮の防波堤の上を歩いていたら、ボクが振り上げた足からゴム草履が飛んで海に落ちた。釣り竿でつつくと、ゴム草履はどんどん遠くへ行ってしまった。

「いいよあんなの、帰ろう」とボクが言うと、ひとつ年下のS君がザブンと海に飛び込んで、そのゴム草履を取ってきてくれた。ボクにゴム草履を渡して「もったいないよ」とS君は言った。ボクは恥ずかしくて礼も言えず、「いらないのに」と心にもないことを口にした。S君の濡れた肩で夕陽が光っていた。

後で父に言われました。飛び込む勇気がなかったのは仕方ない、でも礼を言う勇気がなかったのは情けない、と。でも結局ボクはS君に「ありがとう」の一言を言えなかった。明日言おう、明日言おうと思いながら、とうとう夏休みは終わってしまった。

あれから四十年が経った。S君、きっと君はすごい男になっているんだろうね。君がボクを忘れても、ボクは君を忘れられない。