~ セイノーロジックス創業社長、渡辺景吾が執筆したエッセイ「ゐねむりゑびす」から ~
ヤンマは大型のトンボだが、トンボとはその価値において天と地ほども違う。普通ヤンマというとギンヤンマとオニヤンマで、黄金美のギンヤンマに対して質実剛健のオニヤンマといったところか。ヤンマに噛まれると泣きたいほど痛い。
夏のある日、山道を歩いていると正面からオニヤンマが真直ぐこちらにむかって飛んで来た。弧を描く捕虫網をスルリとくぐり抜けて、ふたたび悠然と飛んで行く。ヤンマは同じ航路を行ったり来たりするので辛抱強く待っていると案の定戻って来た。でかい。30センチぐらいありそうだ。こちらを複眼で見ているのに逃げようともしない。ソレッと差し出す捕虫網をあざけるようにすり抜けて、またもオニヤンマは決まった航路を飛んで行く。まるで名横綱だ。逃げずに相手の組み手で相撲を取る気だ。しかし何往復もするうちにボクはコツをつかみ、とうとうオニヤンマを捕まえたのだった。
家へ帰ったボクは部屋の中にオニヤンマを放した。放した途端にスーッと窓辺のカーテンまで飛んで、止まった。それっきり動かない。ボクが素手で捕まえてももう逃げようともしない。潔い。負けを認めた武士はもうジタバタしないという感じだ。丸一日たっても動かない。ボクはオニヤンマを翌日庭に放した。今度もスーッと飛んでサルスベリの満開の花の下に止まった。それから2日たっても3日たっても動かない。なぜ逃げないんだろう。
1週間ほどしてボクはオニヤンマはどうしただろうと思い出し、サルスベリの樹に近づいた。深紅の花の下に、男の中の男を見たような気がした。見事な羽根をピンと広げたまま、オニヤンマは死んでいた。これは自決だ。もう半端な気持ちでオニヤンマを捕まえることはできない。ボクは悔いに似た気持ちでいっぱいになり、オニヤンマを丁寧に葬った。

